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CLUB SIGNPOSTの活動ブログ

一般社団法人CLUB SIGNPOSTは、小学4年生から3年生の女子を対象としたバスケットボールのクラブチームです。

指導者としての歩み

31 12月

少し整理します!

本日のブログは、少し整理するので、もう少しお待ちください!
13 9月

私のバスケットボール人生を振り返る

私が、教育現場に入って、今年が20年の節目となります。

本校でバスケットの指導をスタートさせて、20年目でもあります。


この間、本当に色々なことがありました。

苦労の方が多い時間を過ごしてきたかもしれませんが、自信を持って言えるのは、困難な状況であっても、逃げずにしっかりと向き合ってきたということです。

だからこそ、見えるようになった世界があります。


本日は、過去にも一度、記事にしましたが、再度、私のバスケットボール人生を振り返ってみたいと思います。

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私のバスケットボール人生
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私は、今まで「自分のしたいこと」をしてきた人生を送ってきました。

人生のターニングポイントで、物事を決める判断基準が「自分がしたいこと」となっています。

小学生の頃、剣道に没頭していた私ですが、中学校に入って、「日本一を目指す」と言われたバスケットボール部の顧問の先生に憧れてバスケットボールを始めました。

あっさり、「剣道」から「バスケットボール」に切り替えましたが、剣道は、府内ではかなり強かったんです。

中学生のとき、「日本一」を目指して、頑張った3年間でしたが、「日本一」に一歩届かず、全中3位。

全中前の近畿大会の決勝戦終了後に、足の力が入らなくなり、全中は、松葉杖をつきながら大会に出場しました。

高校では、「日本一」になりたいと思い、「日本一」を目指せる学校に進学しましたが、中学生の頃の怪我が治らず、3年間、怪我に悩まされて、思うようにプレイができませんでした。

このとき、チームは、インターハイで準優勝。

高校生の頃は、プレイできない現実を受け入れられず、家出をしたり、その他、色々と家族には迷惑をかけました。

怪我からの復帰を目指して、大学は、アメリカ留学をしていたコーチの元でバスケットを習いたいと思い、当時、一部リーグの下位にいた大学に進学しました。

大学でも怪我に悩まされましたが、なんとか、インカレでは、6位になりました。

しかし、バスケットボールを始めるきっかけとなった「日本一」にはなれず、今度は、指導者で「日本一」を目指そうと指導者の道を歩むことにしました。

大学生の頃は、「腰のヘルニア」と「肘の骨折」、そして、「首のヘルニア」になり、競技人生10年のうち、半分以上は怪我でバスケができていません。

少し余談ですが、大学では、オフシーズンに、スノーボードにハマり、気がつけば、プロのお誘いをいただけるほどになりました。

卒業後は、正直、スノーボードのプロになるか、教師になるか迷いましたが、バスケットの道を選びました。

採用の遅かった私は、28歳まで非常勤講師で、月の給料は、10万円弱。

お金はありませんでしたが、毎日、大好きなバスケットに夢中で、本当に楽しい20代でした。

お金よりも、「自分のしたいこと」「やり甲斐」を最優先していました。

指導者として、27歳のときに、はじめて「インターハイ」と「ウインターカップ」に出場することができました。

このとき、全国大会に出場しても講師のままだった私に、いくつかの学校から「うちの高校でバスケットの指導をしないか?」と、良い条件で、お話をいただきましたが、本校で、指導することを選択しました。

30歳のときに、チームが勝てなくなり、精神的に参ってしまい、体に異変が出ましたが、「メンタル(心構え)」を勉強して、病気を克服しました。

そして、30歳前半には、原因不明の腹痛に見舞われて、緊急手術をしたこともあります。

この年は、インターハイ出場を決めた年ですが、インターハイ予選後に入院して、インターハイは、チーム作りができませんでした。

このとき、医者から「あと2時間遅かったら死んでたよ。」と、死の危険に直面したときに、人生は、一度きりなんだから後悔のないよう「自分のしたい」人生を歩もうと、より一層心に誓いました。

そして、30代後半には、「鬱(うつ)」の診断を受けましたが、処方された薬を、病院のゴミ箱に捨てて帰り、気合いで克服しました。(めちゃくちゃでしょ。笑)

この間、新人戦、インターハイ予選、ウインターカップ予選を合わせると、10数回「優勝」を経験させていただき、「勝ち方」を覚えて始めた頃に、今度は、部活に打ち込みにくい環境になってしまいました。

30代の頃は、優勝させてもらっても納得するようなチームが作れず、悔しい時間を過ごした方が多かったかもしれません。

なかなか、苦労の多い人生かもしれませんが、多くの経験を繰り返すうちに、最近では、何が起こっても「折れない心」を身につけることができるようになりました。

また、どれだけ大変なことが起こっても、「しぶとくやり抜く強さ」も兼ね備えることができるようになりました。(ある意味最強です)

今まで、「自分がしたいこと」をやり続けてきた人生のおかげです。(もちろん、家族の支えなくしてはできていません)

また、「自分がしたい」と心から思ったことばかりですので、苦難があっても全て乗り越えることができました。

今は、何が起こっても楽しめる自分がいます。

もしかしたら、遠回りをしている人生なのかもしれませんが、なかなか、刺激的で楽しい人生です。

そして、幸せな人生を歩めていると心から思っています。

苦労は、たしかに、多いです。ホント

しかし、それ以上に、素敵な子どもたちに出会い、毎年のように多くの感動をもらっています。

最近は、「苦労の度合い」が「幸せの度合い」・「充実感」に比例しているのかな?って、思います。


また、最近では、色々なところから必要とされる人材になれてきたのかな?と感じることが多くなりました。(煙たがられることも多いかも。笑)



歴史上の偉人と言われる人たちは、多くの困難に打ち勝ち、歴史に名を刻む人物になっています。

歴史に名を残す人物に比べれば、私の経験は、まだまだ、甘い人生だと思います。


だからこそ、更に、大きな困難を求めて、更なる高みを目指して精進していきたいと思います。
27 2月

指導者としての歩み【2015(3)】

インターハイが終わり、再び、チームの強化がはじまりました。

この年は、国体選手に選ばれたのは1人でした。

今年は、圧倒的に勝たせてもらっていたので、もう少し選んでもらえるかな?と、思っていましたが、個人に力がないと判断されたのなら仕方がありません。

ただ、1人であっても京都を代表して戦ってくれることには変わりありませんので、チームのメンバー全員で応援に駆けつけました。

私は、常々、京都を盛り上げていきたいという想いでいます。

少しでも京都のためになることがあるのなら尽力したいと考えています。


この年は、選手のみならず、裏方にまわってチームのためにサポートしてくれたメンバーも活躍してくれました。

インターハイが終わり、3人が選手からスタッフに転身しました。

1人は、アシストコーチ、もう1人は、スカウティング担当に、3人目は、マネージャーの補佐役として、それぞれが自分の強みを遺憾なく発揮してくれました。


こういうメンバーがいるから、チームがひとつになることができます。


国体も終わり、ウインターカップ予選に向けては、より一層引き締めて練習を行う時期となりました。

2012年は、インターハイに出場した後に、ウインターカップ予選で敗れるという悔しい経験をしています。

この経験を踏まえて、この時期は選手たちが余裕を持てなくなるほど、厳しく指導しましたので、消化不良を起こしている選手もいました。

今、思えば、選手たちに対して、もう少し丁寧に説明して練習を行えば良かったと反省しています。


そのような時期を乗り越えて迎えたウインターカップ予選。

この年も試合中に怪我人が出ました。

準々決勝だったと思うのですが、試合中に、下級生センターが足首を捻挫してしまったのです。

チームを支えてくれていたセンターだったので落ち込みました。

神経質になっているときの怪我は、私の心の平和を保つのがホント大変です。

しかし、チームは、崩れることなく、むしろ、より引き締まり、終わってみれば、決勝でも100点ゲームという快勝となりました。

万全の状態で、ウインターカップに挑みましたが、ウインターカップでは、我々の力を思う存分に発揮することができませんでした。

このウインターカップは、色々、反省すべき大会でした。

しかし、

2015年は、京都の全ての大会で優勝するという素晴らしい快挙を成し遂げてくれたのです。

 4連覇です!

地元の京都インターハイも経験することができ、指導者にとっては、忘れることのできない年となりました。


2015.11.8.2




私が指導者として、歩み始めてから2015年までの歴史を書き綴ってきました。

このまま2019年まで書き進めたいと思うのですが、2016年以降は、あまりにも直近の出来事ですので、もう少し時間が経ってから思い出を振り返りたいと思います。

ここまで、私の記憶をたどりながら書いてきたので、内容に間違いがあったかもしれません。

間違っているところがあれば連絡ください!


毎年、素敵な選手と出会い、多くのことを学ばせてもらいながら、今日まで来ました。

気が付けば、私の指導年数も19年が終わろうとしています。

2020年は、20年目の選手たちとなります。

指導者としての節目に、今年は、何としてでも全国大会の舞台に立ちたいという想いでいます。

この数年は、入試制度が変更になったこと、部活動ガイドラインの影響で、以前より、多くの制限がかかり、思うような活動ができなくなってきております。

しかし、この状況を楽しみたいと思っています。

苦労が多いということに関しては、否定はしませんが、私には、多くの卒業生に育ててもらった指導者としての財産があります。

指導に関わった卒業生は、300人を超えました。

卒業生には、感謝の気持ちでいっぱいです。

まだまだ、未熟な指導者ではありますが、更に、精進して高みを目指して頑張ります。

私は、日本一の指導者ではありませんが、日本一努力することができる指導者にはなれると思っています。

引き続き、皆さんと、熱い時間を共有できるブログにしていきたいと思います。

どうぞ宜しくお願い致します。
26 2月

指導者としての歩み【2015(2)】

新人戦、オールジャパン京都府予選で優勝して、自信をつけて挑んだインターハイ予選。

3チームで優勝争いをした2015年


まずは、新人戦でなんとか2点差で勝利したチームとの対戦です。

地元インターハイということで2チームがインターハイに出場できるので、このチームに勝利するとインターハイの枠をもらえることになります。

もちろん、我々は、優勝してインターハイに出場することしか考えていませんでしたが、やはり、この試合は何とも言えない緊張感がありました。

前日は、なかなか眠りにつくことができず、気が付くと寝室の窓から外の光が入っており、「もう起きなアカン。」と、身支度をしたのを覚えています。

朝に学校で体を動かしてから会場に向かったのですが、選手たちも、少しそわそわしていたように思います。

試合がはじまると、私の心配もよそに、選手たちは怒涛の攻撃で、40点差の勝利となりました。


そして、あと一つ勝てば、優勝して地元インターハイに出場するというなかなか味わえない経験をすることができます。



この試合は、チームがひとつになった瞬間でした。

練習してきたことを遺憾なく発揮し、圧勝しました。
相手のプレイを完全に守り、こちらは、相手が準備してきたことの上をいく戦いができました。

6

最高の戦いができました!

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いよいよ、地元 京都インターハイです。

選手宣誓は、地元の優勝チームが行うということで、我々のキャプテンが行いました!



このキャプテンは、愛嬌がある人柄でした。

悩みごとや今後どうしていくのかということであったり、色々なことを話をしました。
先生と生徒というより、人と人で真剣にぶつかり合ったいうほうがいいかもしれません。

彼女は、3年前からキャプテンにすると決めていました。
彼女をキャプテンにして、京都インターハイに出場すると。


地元インターハイなので、いいくじ運になると思いきや、昨年、ベスト8に入った格上のチームと対戦することになりました。

試合は、どんな試合展開になるのかと心配していました。
地元インターハイということで多くの方に熱い声援をいただきながら戦える全国の舞台です。
これだけ素晴らしいステージはありません。絶対に恥ずかしい試合はできません。

格上のチームであろうが関係ない。


試合がはじまってみると、最高の入りで、前半は、リードして後半を迎えることができたのです。
選手たちは、必死に自分たちの持てる力を存分に出してくれていました。

しかし、能力的にも相手が上回っており、徐々に、疲れが見えはじめ、少しずつ対応が遅れたところを見逃してもらえませんでした。

結果は、初戦敗退となりましたが、我々としては、善戦した戦いができたと思います。

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インターハイというのは、地元のチームが、TOであったり、コートキーパーであったりと運営に携わります。

ただ、インターハイに出場したチームは、その役割から外してもらい、試合に集中させてもらえます。

試合に敗れた選手たちは、上位チームの試合を見て勉強し、試合が終われば学校に戻って練習するというサイクルでインターハイ期間中は過ごしていました。

私は、役員として、お手伝いをさせていただいていたのですが、大会が終わって、観客席を見回っていたら、3年生が会場のトイレを順番に掃除していたのです。

「自分たちは、試合に負けて、何もしないで試合を見せてもらっているのに、他の学校の人たちは、インターハイのお手伝いをしている。そんな姿を見ると申し訳ない気持ちになる。」

「自分たちにできることはないかと考えた結果、3年生で会場のトイレ掃除をしようということになりました。」ということでした。


こういう心の持ち主だから、バスケットでも感動させてもらえるんだとつくづく思い知らされた瞬間でした。
25 2月

指導者のしての歩み【2015(1)】

2015年は、京都でインターハイが開催されました。

私は、3年前から地元インターハイに出場に向けて、準備を進めてきました。
地元でインターハイが開催されると、開催県にひと枠もらえるので、2チームが出場することができますが、私は、優勝して出場すると決めていました。

この年の3年生は、バスケットIQの高いメンバーが揃っていました。
非常に楽しみなメンバーが集まりましたが、彼女たちが入学してきたとき、何かスパイスが足りないと思っていました。

それは、強烈な明るさでした。

チームを元気いっぱいに引っ張ってくれる人物がいなかったということです。

そこで、元気なマネージャーを勧誘して、明るい学年にしようと考えました。
どうせやるなら面白いことをしたいと考える私は、学校で1番元気な生徒がいいと思っていました。

普通ではダメなんです。

ちょうど、その頃、入学して間もない生徒で、教師反抗した生徒がいるというということを聞き見に行きました。

茶髪で大きなピアス、服装は、ド派手な格好をしていた、俗に言うヤンキーがそこにいたのです。
聞くところによると、彼女は、中学のときに、地元を仕切っていたというではありませんか?!

私は、気持ちが高ぶり、迷わず、「明日から髪の毛を黒くして、ピアスを外して、バスケ部に入れ!」、そして、「チームを優勝に導くマネージャーになって、一緒に地元インターハイに出よう!」と声をかけました。

はじめは、なかなかいい反応をもらえませんでしたが、1ヶ月ほど、口説いたと思います。
なんと、ピアスを外して黒髪にした、あの生徒がいたのです。

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右が強烈な明るさを持ったマネージャーです。見るからに雰囲気があるでしょ!

私は、テンションが上がり、最後のピースがはまった!と、喜んでいました。




2015年を迎えて、体育館に足を運んだときは、気持ちが引き締まりました。

いよいよ、「この年が来た!」と。


2015年は、3チームで優勝争いをしました。

新人戦

まずは、一つ目の山場となる試合の前日の出来事です。

マネージャーが逃亡したのです。

私は、練習を中断して、メンバー全員で探しに行きました。
どれくらい探したでしょうか?
かなりの時間を費やしましたが、彼女を見つけて連れ戻すことができてホッとしました。

テレビで見る青春ドラマのようでした。笑

練習もろくにせず、迎えた山場は、何とか2点差で勝つことができました。

そして、優勝決定戦の2日前に、今度は、私が体調を崩してしまったのです。

急に、心臓が痛くなり、熱が40度近く出たのです。
そこで、学校を休ませんてもらって病院にかけつけました。
血液検査から心電図、その他にも色々調べてもらったのですが、原因が分からないということでした。

優勝決定戦は、ふらふらの状態でベンチに座りました。

前半は、20点ほどリードされたのですが、そこから、立て直して、 4クォーター残り7分で逆転に成功してそのまま逃げ切ることができました。

劇的な勝利でしたが、私は、体調が思わしくなく、優勝の喜びを分かち合う前に自宅に帰りました。

新人戦5連覇です。

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その後も体調が思わしくなく、近畿大会では、試合終了後のミーティング中に、情けないことに倒れてしまったのです。

今となっては笑いごとですが、当時は、結構大変でした。笑



この年は、3年前から春休みにアメリカ遠征を予定しておりました。

しかし、当時、日本バスケットボール協会のガバナンスをFIBAから問題視され、高校生の海外遠征ですら中止しなければいけなくなりました。
京都インターハイに向けて、本場アメリカの選手と対戦し、最高の準備を進めようと考えていたのですが叶いませんでした。

そこで、春休みは、地元の大学生と何度も練習試合を行い、チームの強化を図りました。

大学生相手だと、身体の強さと上手さの違いが顕著に出てしまい、なかなか思うようにプレイさせてもらえません。
しかし、これが、結果的に良かったのです。

春休み明けの、オールジャパン京都府予選では、春休みに対戦した大学生を次々と破り、準決勝では、1部リーグの大学と対戦することになりました。

この大学は、春休みに全く歯が立たなかったチームです。

それが、なんと、前半にリードして折り返したのです。
後半は、大学生が必死に反撃してきたのですが、粘りに粘って2点差で勝利しました。

4クォーターの最後に同点に追いつかれたのですが、エースが果敢にゴールに向かってドライブから2点をねじ込んできたのです。

これは、流石としか言いようがありません。

この2点をねじ込んできた背景にはたゆまぬ努力がそこにはありました。

入学したころの彼女は、バスケットは上手かったのですが、身体が弱く、思うようにプレイさせてもらえないことが多々ありました。
1年生の夏に行った遠征では、身体の問題で思うようにプレイできず、試合後に涙を流していたのを覚えています。

彼女の素晴らしいところは、自分の課題を克服するべく、朝早くから学校に来て練習に励むことができることろです。
それこそ、テスト期間中であっても、練習をしていました。年がら年中、自主練に励んでいたという印象です。

大学生相手に、しかも、ドライブでシュートをねじ込み、チームを勝利に導いたという背景には、根気強く自分の課題と向き合ってきた不断の努力の成果です。


決勝では、クラブチームを破って、優勝したのです。

高校生が、社会人、大学生が参加する大会で優勝してしまったのです。

春休みに歯が立たなかった相手を次々と破り、それぞれが自分の課題と向き合い、つかみ取った勝利ほど気持ちのいいものはありません。

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本当に良くやってくれました!

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