教育活動が、徐々に再開され、今までは、個人(自主練)として活動していたものが、これからは、集団(チーム)として、活動していくことになります。

ということは、これからは、女子バスケットボール部員の〇〇さん、という見られ方をされるようになります。

そこで、今回は、少々長くなりますが、紫野高校女子バスケットボール部を「演じる」ことを考えてみたいと思います。


以下は劇作家平田オリザさんの『わかりあえないことから』より引用。
--------------------------------

私は、これまで何度か、不登校や引きこもりの子どもたち、そしてその保護者の方たちと演劇を通じておつきあいをしてきた。

不登校は、中学校から学校に行けなくなるケースが圧倒的に多い。そしてその多くが、それまで、いわゆる世間で言うところの「いい子」だった場合が多いようだ。

そして彼らは口を揃えて、「いい子を演じるのに疲れた」と言う。私は演劇人なので、そういう子たちには、「本気で演じたこともないくせに、軽々しく『演じる』なんて使うな」といった話をする。

もう一つ、彼らが言う口癖の一つに、「本当の自分は、こんなじゃない」というものがある。

私は、そういう子たちには、「でもさ、本当の自分なんて見つけたら、たいへんなことになっちゃうよ。新興宗教の教祖にでもなるしかないよ」と言うことにしている。

大人は、様々な役柄を演じ分けながら生きている。夫/妻という役割、父親/母親という役割、会社員という役割、親と同居していれば子どもという役割、他にもPTAの役員の役割や、週末はボランティア活動のNPOのメンバーの役割もあるかもしれない。私たちは、多様な社会的役割を演じながら、かろうじて人生の時間を前に進めていく。

そんなことは、みな知っているはずなのに、子どもたちには、「本当の自分を見つけなさい」と迫る。それは大人の妄想だろう。あるいはこれも、形を変えたダブルバインドと言えるかもしれない。

科学哲学が専門の村上陽一郎先生は、人間をタマネギにたとえている。タマネギは、どこからが皮でどこからがタマネギ本体ということはない。皮の総体がタマネギだ。人間もまた、同じようなものではないか。本当の自分なんてない。私たちは、社会における様々な役割を演じ、その演じている役割の総体が自己を形成している。

演劇の世界、あるいは心理学の世界では、この演じるべき役割を「ペルソナ」と呼ぶ。

ペルソナという単語には、「仮面」という意味と、personの語源となった「人格」という意味が含まれている。仮面の総体が人格を形成する。ただし、その仮面の一枚だけが重すぎると、バランスを欠いて、精神に支障をきたす。

この「いい子を演じる」という問題を、私は一〇年以上、各所で語り、書き連ねてきた。しかし、その中でもショックだったのは、秋葉原の連続殺傷事件の加藤智大被告の発言だった。報道によれば、犯行前、加藤被告は、携帯サイトの掲示板に、以下のように記していたという。「小さいころから『いい子』を演じさせられてたし、騙すのには慣れてる」

私は、「演じる」ということを三〇年近く考えてきたけれど、一般市民が「演じさせられる」という言葉を使っているのには初めて出会った。なんという「操られ感」、なんという「乖離感」。「いい子を演じるのに疲れた」という子どもたちに、「もう演じなくていいんだよ、本当の自分を見つけなさい」と囁くのは、大人の欺瞞に過ぎない。

いい子を演じることに疲れない子どもを作ることが、教育の目的ではなかったか。あるいは、できることなら、いい子を演じるのを楽しむほどのしたたかな子どもを作りたい。

日本では、「演じる」という言葉には常にマイナスのイメージがつきまとう。演じることは、自分を偽ることであり、相手を騙すことのように思われている。加藤被告もまた、「騙すのには慣れてる」と書いている。彼は、人生を、まっとうに演じきることもできなかったくせに。

人びとは、父親・母親という役割や、夫・妻という役割を無理して演じているのだろうか。多くの市民は、それもまた自分の人生の一部分として受け入れ、楽しさと苦しさを同居させながら人生を生きている。いや、そのような市民を作ることこそが、教育の目的だろう。演じることが悪いのではない。「演じさせられる」と感じてしまったときに、問題が起こる。ならばまず、主体的に「演じる」子どもたちを作ろう。

霊長類学者山極寿一氏によれば、ゴリラは、父親になった瞬間に、父親という役割を明らかに「演じている」という。これが他の霊長類との違いだろうと氏は指摘する。しかし、そのゴリラも、同時にいくつかの役割を演じ分けることはできない。父親になった瞬間に、たしかにそれまでの個体とは違う人格(ではなくゴリラ格)を演じているのだが、そこでは前の役割は捨て去られる。人間のみが、社会的な役割を演じ分けられる、、、、、、、。私たちは、演じるサルなのだ。

--------------------------------


私は、「演じる」ことで、自分自身を成長させることができると思っています。

それは、「○○を演じる」ことは「あるべき○○の姿を演じる」「理想的な○○を演じる」ということを意味しています。

たとえば、「紫野高校女子バスケットボール部の先輩を演じる」という表現における「紫野高校女子バスケットボール部の先輩」は、「怠けている先輩」をイメージすることはないと思います。

下級生から見て「ああなりたい」と思われ憧れられるような「理想の」先輩の姿を指しているのではないでしょうか。

演じるためにはその対象についての理想や目標が必要です。

そこに、現実の自分を少しずつ近づけていこうとするのが「演じる」ことではないでしょうか。

私は、部員に対して、紫野高校女子バスケットボール部の活動と関係のない場面であっても常に紫野高校女子バスケットボール部を演じてもらいたいと思っています。


なぜなら、

周りからは、そのように、見られているからです。


先日、ある方から、我々のチームを紹介させてもらいたいという依頼を2件、受けました。

1件は、お断りして、1件は、受けようと思っています。

お断りした会社は、その会社の利益のためだったからです。

お受けした会社は、我々のチームに、夢を感じて下さったからです。

そういう魅力を感じて下さっている方の期待に応えられるチームでありたいと思っています。


我々は、いつどこで、誰に見られているのか分かりません。


試合会場の移動中も、登下校中も、

そして、

授業中も、HRや授業中であってもです。


常に、紫野高校女子バスケットボール部の一員としてのどうあるべきかを、それぞれが考えて、行動してもらいたいと思っています。