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CLUB SIGNPOSTの活動ブログ

一般社団法人CLUB SIGNPOSTは、中学1年生から3年生の女子を対象としたバスケットボールのクラブチームです。

「幅広いスキルの習得」より、「チームを勝利に導くスキルとマインドの習得」を目指すクラブ
13 2月

指導者としての歩み【2005(1)】

2005年、チームの指揮を任された私は、かなり意気込んでいました。

本当に、根拠のない自信で満ち溢れていました。

 

はじめての新人戦。

優勝決定戦までは、順調に勝ち上がり、今年こそは、優勝してやると強い気持ちでいました。
しかし、私が思い描いていた戦いができず、一言でいうと、粉砕しました。

これは、完全に私の指導力不足に尽きます。

本当に反省しました。同時に、インターハイ予選に向けて、どこを改善して、どのように準備しなければいけないかを、ぎっしりノートにまとめたのを覚えています。

新人近畿は、久しぶりにベスト8になりました。

準々決勝は、エースが最後の最後にセンターライン付近から3Pを沈めて、逆転勝利!

このエースは、現在、Wリーグで活躍している選手です。

この選手の凄いところは、決して運動能力が高いという訳ではないのですが、理解力と判断力に長けており、何をするにも、嫌な顔を見せず、「やると決めたらやる!」と、非常に、明るく前向きな選手でした。

試合中もずーっと声を出しており、ただ、声を出すだけでなく、チームに安心感を与えてくれるような声を出してくれていました。

この年のチームは、ほとんど5人(3年生の主力は4人)で戦っていましたが、役割分担がしっかりしており、それぞれが自分の強みを磨いていました。

この時の3年生4人は、それぞれ個性があるので紹介します。

キャプテンは、151cmのセンス抜群のポイントガード、多くのことを語る人物ではありませんでしたが、膝と腰の痛みを抱えながら頑張っていました。
彼女は、1年の春と2年生のときに前十字靭帯を切り、下級生の頃は、ほとんど試合に出場していません。
彼女の素晴らしいところは、
普段は、笑顔の素敵な優しい性格なのですが、苦しい時間帯になればなるほど、目つきが変わり、集中力が増していくところです。


次に、フォワードの選手、彼女は、足が遅く、経験も全くない選手でした。高校入学した当初は、レイアップシュートも決めることができず、よく涙を流しながら練習をしていました。脚力がないので、もちろん、ディフェンスもできませんでした。
しかし、彼女の素晴らしいところは、どれだけ上手くいかなくても、どれだけ涙を流しても、絶対に逃げないところです。むしろ、歯を食いしばって戦います。
入学当初、まさか、彼女が試合にでるなんで思いもしませんでした。

最後に、エースの相棒センターです。彼女は、怒られ役でいつも怒っていたように思います。しかし、いつもリバウンドに入って味方のシュートをつないでくれる。チームにとって欠かすことのできない存在でした。

この4人を中心に、この年は戦い抜きました。

余談ですが、この年は、他にも面白いメンバーがたくさんいました。

中学校の時に、陸上部に所属しており、高校になってからバスケットをはじめた生徒が2人もいます。このうちの1人は、インターハイ予選の決勝で最後にコートにも立ちました。

また、凄く真面目な選手やお調子者の選手など個性いっぱいの学年でした。


そのようなメンバーで迎えたインターハイ予選。

決勝までは順調に駒を進めて、優勝してインターハイの切符を勝ち取りべく、迎えた朝。

試合前に、監督から「緊張するやろ!」と声をかけられました。

私は、あまり緊張した経験がないという不思議な性格で、「早く試合がしたいです!」と答えたように思います。

勝ちに飢えていた私は、決勝までの期間は、ほとんど寝ずに対戦校の映像を何度も確認し、最後の方は、映像を見なくても対戦校の試合を解説できるほど準備しました。

私が、いつも心掛けていることは、自分のできるベストを尽くすということです。

ベストを尽くしても試合に負けることはありますが、その時々で、自分が「〇〇はやっておいたほうがいい。」と、思ったことは、何があっても絶対にやります。

それこそ、睡眠を削ってでも、どれだけ大きな仕事を抱えていようと、そういうことは一切理由にしません。

それをしないと不安になりますし、もっと言えば、そういうことをやっているからこそ、緊張しないのかもしれません。


緊迫した雰囲気の中、試合がはじまりました。

この試合は、準備してきたゲームプラン通りに試合が進み、前半はリードして終えることができました。

ただ、前年も決勝で前半にリードして折り返し、後半で逆転された経験がありましたので、ハーフタイムで、その経験を踏まえて、後半も締めて戦いなさいとコートに送り出しました。

本当に、色々なことが上手く回り、4クォーターの残り2分には優勝を確信できる内容となりました。

このときに、監督の顔を見ると、すでに涙を流して喜んでおられました。
私は、その姿を見て、ジーンときたのを覚えています。

試合終了のブザーが鳴った時は、感動的でした。監督と勝利の握手を交わし選手たちと優勝の喜びに浸りました。

あの感動は、一生忘れられない瞬間です。


この勢いをそのまま続けて、近畿大会はベスト4に入りました。

ベスト4の立役者は、
入学当初、1番能力のなかった、レイアップもままならないフォワードの選手です。


彼女が、相手のエース、後にWリーグに入った選手ですが、そのスーパースターを見事に抑えてくれて勝利することができました。

今でも「よく守り抜いてくれたなー!!!」と、凄いの一言に尽きます。

彼女の姿を見て、苦しいことがあっても、下を向かないで、諦めずに、正しい努力を続けたら、結果を残すことができるということを学びました。
また、努力で積み上げたディフェンスは裏切らないということも教えてもらいました。


27歳という若造にインターハイの舞台を経験させてくれた彼女たちには感謝しかありません。

12 2月

指導者としての歩み【2004】

2004年、この年は3年生が6人しかいませんでしたが、その分、強い絆で結ばれていました。

キャプテンは、才能に溢れた絶対的なエースでした。


彼女は、どちらかというとリーダーシップを発揮して、チームをまとめていくタイプではありませんでした。
この学年の良いところは、キャプテン以外のメンバーがしっかりしており、キャプテンを支える中で、チームの結束が深まったところです。


この学年は、怪我が多く、1年間ベストな状態で戦えなかった年です。


新人戦は、優勝決定戦の週に、得点源の1人がインフルエンザに感染し、少ない人数に、更に体調不良が出て、散々な試合となりました。


新人戦が終わり、春休み前に、キャプテンが足首の手術を行い、チームから離れましたが、このときに、周りの選手の自覚が出てきたように思います。

春休みの招待試合では、絶対的なキャプテンがいない状態で、上位入賞し、チームの成長を感じていました。

この試合は、私が指揮を執っておりました。
試合終了後に、選手が満足しているように映ったので、体育館横の廊下で、厳しく注意しました。
もっと頑張ってほしいという想いを込めて指導しました。

その選手が卒業してから「あのときは怒りすぎです!」と、言われたのがいい思い出です。

でも、あなたのような明るく、たくましい人物だからそこまでできたんです。と、カッコよく言いたいところですが、言い過ぎました、すみませんでした。


順調にきていた、チームでしたが、インターハイ予選は、準優勝となりました。


もうあと一押しという手応えを感じていたので、ウインターカップ予選に向けて、想いを膨らませていました。


2003年頃からは、少しずつ練習試合などでチームの指揮を執らせてもらえることが増え、私のコーチとしての初デビューは2004年の近畿大会でした。


インターハイ予選が終わり、近畿大会までに何か爪痕を残せないかと思っていた矢先・・・チームの得点源の選手が練習中に前十字靭帯を断裂しました。

これは、本当にショックでした。彼女がいなければ戦力は大幅にダウンします。

それでも、彼女は、近畿大会に出場すると言って、近畿大会までリハビリを頑張り、試合当日はガチガチに巻いたテーピングで途中出場しました。

交代の際、私は、「シュート決めて来いよ!」と、送り出したのですが、見事、その期待通りに3Pを沈めてくれました。

なんと表現していいのか分かりませんが、
映画の感動的なシーンにあるスローモーションで、ゆーっくりと綺麗な放物線を描き、スパッっとリングを射抜くといった感じでしょうか。


感極まって、ナイスシュートが言えなく、「ナスー!」と言ったのを覚えています。笑


しかし、膝がグラつき途中交代・・・。


彼女は、夏で引退して、猛烈に勉強に励み、国公立の大学に見事合格しました。


大きな戦力を失った後、更に、悲劇に見舞われました。

副キャプテンが秋の遠征中に、半月板の損傷・・・ウインターカップ予選直前の遠征だけにショックが大きく、チームも精神的に大きなダメージを受けました。



しかし、この副キャプテンも凄かった!


私は、「人間、苦しいときに、その人の真価が問われるよ!」と話をします。


最後の大会直前に大きな怪我をして、本人が一番苦しいはずなのに、大会前の練習では涙を見せずに、最高の笑顔で、一番声を出してチームを鼓舞していました。

その姿を見ているだけでも
目頭が何度も熱くなりました。

大会に向けて、あれだけ、シュートを打ち込んできたのに、どうしたらこんな姿を見せられるのでしょうか。

自分よりもチームを1番に考えた最高のチームプレイヤーです。


しかし、多くの戦力を失った状態では、チームの士気が高まりません。

キャプテンは、プレイに集中できず、ずっと泣いていました。


案の定、チームは、準決勝で、2点差で敗れ、ベスト4敗退となりました。

この2点差というのが、このときのチームの状態を物語っているようで、何というか心が満たされない気持ちになりました。



一方、このウインターカップ予選は、
下級生がメキメキと力をつけてきており、新チームに向けて、明るい希望が持てたのも事実です。


 

準決勝を終えた次の日の朝。

 

 

目が覚めると、監督のほうが先に目が覚めており、私が起きたのを確認して、「新チームからお前が見ろ!」と、まだ、眠たい目をこすっている私にいきなり言われたのにびっくりしました。

私は、思わず、「えっ、僕でいいんですか?」と答えたのを覚えています。


あまりにも唐突のことだったのと、26歳の若造がこのチームの指揮を執ってもいいのだろうか?という気持ちになりました。

当時、全国に出場している20代の指導者は、私の知る限り、おそらくいませんでした。

そのような状況で、私にチャンスが巡ってくるとは全く想像していませんでした。

 

しかし、怖いもの知らずの私は、「絶対に優勝してやる!」と、1人意気込んでいました。

 

今から思うと、その根拠のない自信はどこからきていたのでしょうか??

11 2月

指導者としての歩み【2001-2003】

『その人の言葉に重みがあるのは、その人の歩んできた道のりが険しい道のりだったから。』と、書かれた本を読んで、ハッとしたことがあります。

 

私は、なぜ、同じ言葉を伝えていても、人によって、心に響く人と、軽く捉えられる人に分かれるのか不思議で仕方がありませんでした。

  

壮大な人生を歩んでおられる方から出てくる言葉には、言葉の一つ一つに重みがあり、心をえぐり取られるような衝撃を受けることがあります。

  

また、そういった人に限って、自分で自分自身を追い込んでおられるように思います。

  

私もそのような人たちのように言葉に重みを持たせることができる指導者になりたいと思って、常々、険しい道のりを歩みたいと考えております。

 

 

 最近、「先生はいいですね!」と、「なんですか?」と聞くと、「先生って、いい経験ばかりしていて、嫌な経験ってほとんどないでしょう。」と言われることが増えました。

もちろん、いい経験もさせてもらっていますが、それ以上に、苦労もしてきました。同時に、辛い経験や二度と味わいたくないことにも直面し、多くの気づきをもらいながら現在に至っています。

 

自分自身の整理も踏まえて、私の指導者としての人生を振り返りたいと思います。
 

 【2001年~2003年】

 

私が指導者の世界に足を踏み入れたのは、2001年です。

大学を卒業して、2年間中学校で非常勤講師をしながら、放課後は、外部コーチという立場で現在のチームに関わっていました。

私は、教員採用試験の勉強は、全くと言っていいほど勉強しておらず、来る日も来る日もバスケットに没頭していたので、毎年のように試験は不合格・・・いずれ、採用されるだとうという甘い考えでいたので、結局、28歳まで非常勤講師として働いておりました。

ですから、それまでは月10万くらいの給料で、実家で親のすねをかじらながら生活をしていました。

社会人になっても学生の延長で、『バスケットに夢中』といった感じでしょうか。

とにかく、お金がなくて、遠征に行ったり、生徒の誕生日やイベンドのときは、金銭面でかなり苦労しました。この期間に、小さいころから貯めていた貯金は、すべて無くなりました。笑


2000年の終わりに、当時、本校で監督をしていた方から、声をかけていただき、私は、2000年4月にアシスタントコーチとして指導を開始することになりました。

この頃は、指導というより、毎日、練習に入って、1on1や5on5をしたりと、言葉で上手く伝えることができなかったのでプレイで伝えていた方が多かったように思います。

近くの川にも一緒に走りに行って、選手との距離も近く、お兄ちゃんのような存在だったと思います。

 

2001年、本校には、今でいうU-18の代表選手が在籍しており、インターハイ予選は、優勝候補の筆頭でした。

 

彼女は、ユニバーシアードの代表にも選ばれるような選手で、気が強く、しなやかで華麗な選手でした。

 

しかし、インターハイ予選では、接戦の末、3点差で敗れ、これだけのスーパースターがいても「こんなことが起こるのか?!」と試合で勝つことの難しさを指導者としてまざまざと思い知らされました。

 

そこから、ウインターカップ予選までの期間は、選手もスタッフも必死になって練習に打ち込み、異様な雰囲気でウインターカップ予選を迎えました。

 

順当に決勝まで進めると思いきや、準々決勝で、U-18の選手と相手チームの選手が接触を起こし、相手チームの接触が骨折をしていまいました。

 

このことで、U-18のエースが動揺してしまい、重たい試合展開になりました。

 

しかし、さすがエース!
きちんと立て直し、決勝まで駒を進めてくれました。

 

決勝戦は、インターハイ予選のリベンジです。

 

エース、それから、他の選手がインターハイ予選の分まで奮闘し、終わってみれば100点ゲームでウインターカップの切符を勝ち取ることができました。

 

2000年は、本校がはじめてウインターカップに出場した記念すべき年となりました。

 

指導者1年目でこの瞬間に立ち会えたことは、私にとっては、運がいいというか、感謝しかありません。


 

味を占めてしまった私は、これから夢のような指導人生が始まると勝手に思い込んでいました。

 

2002年は、なんと、ベスト8で敗退するという予想だにしない結果となりました。

 

この年は、チームが崩壊してしまいました。

練習や試合に集中することがなかなかできず、ウインターカップ予選もベスト8で終わりました。

この時は、練習後に、選手の悩みを聞き、改善策を探り、一緒に練習をして、監督に認めてもらえるようような選手になるまでどうしたらいいのかを選手と一緒に考えていました。

それでも、なかなかいい方向に向かわず、男子では経験したことのない女子特有のチーム作りの難しさを経験しました。
 

そこから、何とか立て直そうとチーム一丸となって、取り組みましたが、チームというのは、一度、崩れてしまうとすぐには立て直せないものです。

次の年の新人戦もインターハイ予選もベスト8で敗れ、歯がゆい時期を過ごすことになりました。

 

アシスタントコーチという立場ではありましたが、どうしたらチームをよくすることができるのか分からずもがいていました。

 

しばらく苦しい時代を過ごすことになりましたが、2002年のウインターカップ予選でなんとか決勝まで駒を進めることができました。

 

インターハイ予選でベスト8からウインターカップ予選で一気に決勝まで勝ち上がることができたのは、理由があります。

 

選手の熱量が凄かったに尽きます。

毎日のように、「こんなんで勝てるん?」「もっとちゃんとやろうや!」と選手同士でお互いに指摘し合い、時には、喧嘩をしながら、勝ちに飢えた集団は、練習後も更衣室で言い合っていました。

 

熱量の高いメンバーが揃うと、強烈な力が発揮されます。この個性豊かなメンバーだから一気に決勝まで駆け上がったのだと思います。


この学年は、私がはじめて3年間指導した学年でした。

卒部していくときは、大好きな彼女にフラれたような気持ちになり、心にぽっかり穴が空いて、しばらくは、放心状態でした。笑


先日、このメンバーと同窓会を行いました。
インターハイ予選が終った後、なんとかチームを変えたいという一心で、私が指導する日は、ディフェンスに注力していた。
同窓会のときに「ホンマ、アホほどディフェンスフットワークをやらされた!もうっっ!!!」と、ボヤいていました。
その後に、「でも、あれがなかったら決勝にいけなかった。」と、話してくれ、ホッと胸をなでおろしました。

 

 

 

 

実は、この年、私の人生でも最悪の出来事が起こります。

私が教えていた選手がトレーニング中に、意識がなくなり、病院に運び込まれました。

 

先天的に脳にあった傷が原因で、検査の結果、特に大きな問題がないとのこということで、最後の処置を済ませたら退院できるとうことでした。

 

しかし、最後の処置の際、別の部位を傷つけてしまったらしく帰らぬ人となりました。

 

医療ミス・・・。

 

 

私が教えていたトレーニングをしているときに起こった出来事でしたので、全て自分の責任だと自分をめちゃくちゃに責め、この時期は、正直、「生きるってなんだろう?」「自分が指導する意味ってなんだろう?」と、自分が分からなくなりました。

というより、自分が何かを伝えることが怖くなり、授業で何か話をすることも怖くなってしまいました。


本当に怖くて、勤務中に車の中に引きこもっていたこともありました。

 

自分がトレーニングを教えていなかったら、このようなことになっていなかったのかもしれないと悔やんで悔やんで、今でも悔やんでしまいます。



このときに、バスケットをやりたくてもできなくなることがあるということを目の当たりにしました。

私ができることは、この想いを一生忘れることなく、バスケットができることに感謝し、一生懸命大好きなバスケットに打ち込むことだと思っています。

 

人の命について書くには、かなり迷いましたが、この出来事なくして今の自分はありませんので書かせていただきました。

 

 

私は、選手たちに、「人生は、死ななかったら、すべて成長の糧にできる。」とよく言います。

 

「だから、思い切ってチャレンジしなさい。チームメイトとも心からぶつかりなさい。」

 

チャレンジして、また、本気で良くしたいと思って行動に移したことが上手くいかないことは良くあります。
たとえ、上手くいかなかったとしても真摯に自分と向き合うことができれば、それが、辛いことであっても次につなげることができます。

  

命を亡くしてしまうと、どれだけ想いがあったとしても次に生かすことができないのです。。。

  

私が25歳のときでした。

 

 まだまだ、指導者として歩み始めたばかり頃に、このような悲しい出来事に直面したのは、私にとっては、これから指導していく上で、言葉では表すことのできない大切なものを学ばせてもらいました。


 

 

私のような未熟な人間が、何かを語るのはおこがましいと思いますが、

 

生きるというのは、「この世に授かった命に感謝して一生懸命に魂を育むこと」なのかな。と最近、つくづく感じています。

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